シュピーゲル 13年3月25日No.13「過去の傷」(ロマン・ライク)ZDF戦争ドラマ「Unsere Muetter,unsere Vaeter」(私たちの母たち、私たちの父たち)評

 ZDF三部作「Unsere Muetter,unsere Vaeter(私たちの母たち、私たちの父たち)」は、矛盾にみち感情的でもある眼差しを戦争の時代にそそいでいるーそして世代を超えてドイツの記憶の文化に新しい里程標をすえることになった。

 

 ドラマの結末で三人の生存者が、いまでは荒廃したベルリンにある行きつけの居酒屋で再会をはたす。うつろな表情、にぶい眼差し、閉じた口元。作為的な場面であって、ついでに言えば、作劇法上どう考えてもうまくない場面だが、そんなことは問題でない。この名だたるゼロ時点においては一切はたったひとつの命題に帰着する。この命題を三人のうちの誰も口にしない。帰郷をはたした三人の前にある歴史的な無にかかわってこの命題はあまりにも重いものなのだ。

 それは画面の外で語られた注釈であって、ある意味で1945年5月の崩壊以後における歴史のモラルである。その命題は結末であって同時にはじまりである。すなわち「間もなくなおも残るのはドイツ人だけとなり、ひとりもナチはいなくなる。」という命題である。

 ゲシュタポの地区長は、すでに制服を焼き捨て、しわのない背広を着て占領軍の事務所に座を占め、自分の経験が必要とされていると無感動に告げる。現に傷ついたその他の者たちは、異邦人のように瓦礫の中に茫然として立ちつくし、これからどうなるものか見当もつかないでいる。

 これからどうなるか。しかし歴史的事実と物語の経過について熟知している視聴者はそれを承知している。五人の友だち仲間が1941年の夏に「クリスマスにふたたび会おう」と約束して別れたあと、どうなったか。初期の包囲殲滅戦ののち部隊を勝利を確信しつつ広大なロシア領に進めたときの精神の高揚が欺瞞をはらんでいたこと。前線の背後には投入部隊が荒れ狂っており、女子供も容赦せずに大量殺人を犯していたということ。戦闘する国防軍もまた、人間性に対する罪を彼らがはじめて可能としたがゆえにすでに罪を免れないこと。そうしたことを視聴者は承知している。

 とりわけ視聴者が承知しているのは、この破局ののち驚くような早さで復興がはたされたことである。一種の埋め合わせとしての経済の奇跡。民主主義。連合国の庇護のもとでの西ヨーロッパの統合。ドイツ分割。冷戦。ドイツ連邦共和国の成功物語で武装して、戦中派世代の人々は長い間沈黙をまもり抑圧した。そうして啓蒙活動の回帰する衝撃波。想起。恥辱。悲哀。そして過去の克服。そうしたものが60年代以後多かれ少なかれ規則的な間隔をあけてドイツ社会を通過した。

 するとなぜ、この4時間半にわたるZDFの叙事詩はすでに幾度も測量された坂道を通過しようというのか? ひとつのテレビドラマがもたらした感情的な爆発、先週水曜日の最終回は七百六十三万人の視聴者を獲得し、視聴率は24パーセントに達した、そのことはどう説明がつくのか? この三部作が視聴者に支持されないとしたら、それは「こうした過去についての題材と対決するだけの心構えが失われてしまったということ」を意味するだろうと「私たちの母たち、私たちの父たち」のプロデューサーであるニコ・ホフマン氏は語っている。

 同時代の証言者、犠牲者および加害者、共犯者、支持者、抵抗者などの戦中派世代は死に絶えつつある。彼らとともに、ドイツでもヨーロッパでも生きられた記憶は失われてゆく。しかし過去は過ぎ去ろうとしない。吸血鬼のように魔神どもはくりかえし抽象的な歴史の闇のなかから息を吹き返す。間もなく居合わせる誰もがもはや物語りえなくなるという理由から魔神どもが祖父や両親をもはや襲わないとしても、彼らは子どもたちや孫たちのイメージの世界に追い払いようなく化けて出つづけることになろう。

 第二次世界大戦は68年前に終わった。歴史を仕上げることに時間がかかるのは確かなことだが、ほとんどすべてのことが研究され、照明を当てられ、語られてしまったというのも本当のところだ。後に生まれた者たちにとって啓蒙活動はもはや知識について、実在の野蛮がおかした仮借ない事実を直視することについて行われるものではなくなり、感情について行われている。ドイツ人にとって、ごくごく若い世代にとってすら、ナチスと彼らがおかした非道は何か宇宙人がおかしたことのように思われるわけなのだが、その彼らも自分たちの祖母や祖父にそれが出来たということを意識するとき、慄然としないではおれない。性格やふるまいの特定の型が世代の越えて受け継がれているかも知れないと彼らは不安をもっているふうである。

 民族精神であるとか国民性などという概念はきわめて非学問的なカテゴリーである。しかしそれならなぜ、あらゆる機会をとらえて呪文のように「二度とふたたび」という誓いが繰り返されるのだろうか? ドイツ人にだけ特別に考案された歴史の教訓ででもあるかのように、くりかえし民主主義、自由、人権への促しが強調されるのはなぜだろうか?

 どんなに非合理的に聴こえようが、こうした疑念を追い払うことはできない。この疑念は外国でもことあるごとに呼び起こされる。ドイツ民族は特殊な事例だ。20世紀におけるその犯罪の特異性において、実際彼らは歴史的な部外者なのだと。自分自身に安心できない者はくりかえし自分のことを確かめてみないではいられない。見たところ永遠に傷ついたままの国民は記憶の治癒力を当てにして定期的に精神分析医のソファーを訪れる。トラウマとともに生きる者は、化膿しないようにときどき傷口をピンで刺してやらねばならないというわけだ。

 たとえば、ZDFのドラマを見た15歳の生徒たちの反応は、歴史の全体像を感情移入することが可能な個人の体験世界のうちに取り戻すことがどれほど大切であるかを示している。生徒たちに対して儀礼のように繰り返される記憶の文化は、隔たりの感情とともに、判で押した教科書の知識としてしばしば同時に嫌気を生んでしまう。SSの手先、ヒトラーゲッペルスの叫び声はそこで生気を失い、不毛な教育内容は非現実となった別の世界の出来事に劣化してしまう。国家社会主義はそうしてグロテスクな芝居を思わせるものとなり、そうした印象をクエンティン・タランティーノのような映画作家が首尾よく利用している。

 こうした状況に対して、「私たちの母たち、私たちの父たち」のようなドラマは感情的な覚醒体験をもたらす解毒剤の役割を果たしてくれる。それが試みるのは、子どもたちが唖然として問う「そこにおじいちゃんやおばあちゃんはいたの? 信じられない!」というような質問に対して解答を与えることだ。外から見たら、たとえばアメリカ人の目から見たら、大規模な戦争画のようなものに過ぎないかも知れないが、「プライベート・ライアン」のような感動的な運命をともなう戦争ドラマは、たんなるドキュメンタリーとはことなる本当らしさを獲得することになる。すでに多くの歴史ドラマ(「ドレスデン」、「逃亡」)の責任者だった映画プロデューサーのホフマン氏は、彼の見方では、「世代間の橋渡し」に成功している。それは、彼が個人的な感情に訴えて、家族のきずなを結びなおし、主人公たちにアンチヒーローすれすれのふるまいを犯させたからだ。

 というのも、グレタ、シャルロッテ、ヴィルヘルム、フリードヘルム、ヴィクトールの五人の友だち仲間が受け渡してくれる、おそらくもっとも大切な教えとは、後に生まれた者たちにとって決定的な問い、すなわち「自分ならどうしたろう?」という問いであって、誰もが道徳的な思い上がりを奪われ、実際、最後にはみずから卑俗なふるまいを犯すか、あるいは少なくともそれとすれすれのふるまいを犯す者であることが暴露さえるからだ。どんなに繊細な感情にめぐまれた者も、礼儀正しい者も、信仰心の厚い者も、最高の教育を受けた者も、誰も無傷のままではいられない。ジャン・ポール・サルトルの戯曲「汚れた手」のように、こうした状況において清潔なままでいられる手は存在しない。程度の違いはあれ、全員が罪を負っている。個人に対して決定の自由を行使する独裁が、誰をも道徳的に腐敗させてしまう。個々人の責任は、漠然とした集団の罪のうちに解消することはない。自分を加害者から区別すること、自分をまったくちがったふうに定義することはカタルシス的な浄化作用の対極にあることがらであって、神罰なしに奇妙に平穏な時代のうちに生きる現代人の傲慢である。

 ドラマの五人組は、紋切り型だがテーゼを担っているというのではなく、個人的に造形された人物像であって、それぞれ悪に染まるというわけではないが、自分の無垢(無罪な状態)を失うことになる。シナリオライターのシュテファン・コルディッツ氏が自分の構想について述べているところでは、「善悪というカテゴリーではこの世代のことは先に進めない」ということになる。まさに各人のふるまいが原則的に矛盾にみちたものであることに各人の人間性がある。自分自身の至らなさを認識し承認すること、このきわめて深甚なキリスト教的特性が、自分の暗黒面を抑圧したり他人の弱みに付け込むことから彼らをまもっている。そのことがドラマのストーリーを視聴者にとって説得力あるものにしている。ストーリーが視聴者を安心させず、立派な人物に途切れなく同一化することを許さないからである。

 歴史の経験から来るドイツ人の不安は70年経った今も尾を引いている。この不安が、外国では奇妙に見えるような常規を逸したところをドイツの政治生活に与えている。しかしこれがこれまでのところ国内的には、政治が極端に走ることに対して安心できる保護をほどこすことになっている。

 過去のトラウマなくしては、ドイツの民主的な政治家たちがNPD(ドイツの極右政党)の禁止について議論する熱心さを理解することは難しいだろう。戦う民主主義は選挙によって防衛することができる。そのためには啓発された意識と信頼にたる法治国家があれば十分である。フランスでは誰も、ジャン=マリ・ルペンとその娘マリーヌの国民戦線を禁止することなぞ思いつきもしない。ベルギー人もオランダ人もスカンディナビアの人々もイタリア人もみな右からする過激主義やポピュリズムに反対して政党を禁止する必要をみとめない。

 癒えそうもないし癒えることが許されもしない傷なくしては、ドイツ連邦軍の外国派遣について凄まじい議論を戦わせるその激しさは理解できないだろう。フランス大統領フランソワ・オランドは独立独歩で文字通り一晩のうちにマリへの海陸両部隊の派兵を決定した。ドイツはと言えば、ちょっとした輸送や燃料補給機についての決定にさえ悪戦苦闘している。躊躇することは適正なことだが、ものごとをタブーにすることはそうではない。歴史への恐れから、侵略戦争の裏側としての国際的な保護責任もまた生じてくるのである。

 ナチスの時代から来る罪悪感なくしては、メルケル首相がどこかの国でヒトラーのちょび髭やハーケンクロイツをほどこされて誹謗されても、彼女と彼女が代表する国民が冷静でいられることを説明することはできないだろう。ドイツ人は、ワシントンやパリ、モスクワでは考えられないような落ち着きと羞恥心を持続するのだ。その際、それはわれわれに当てはまること、それはわれわれの気持ちを傷つけること、それはわれわれに肩をすくめさせることをわれわれは認める。しかしユーロのシステムから離脱させようというような、時としてあらわれる少数者の促しには実質的に決して耳を貸さないだろう。こうした平静さのうちにも、打ち負かされ破壊され道徳的に地をはって1945年以後つちかった経験が効果を及ぼしている。この経験について、ヨーロッパ議会の議長マルティン・シュルツ氏は、歴史のまったく異なる展開を説明する次のような印象的な定式で要約している。すなわち「ヴェルサイユ条約の代わりにシューマン・プラン(1950年フランス外相シューマンが唱えた、ドイツとフランスを中心に西ヨーロッパ諸国が石炭と鉄鋼を共同に管理する構想)」。

 1945年のゼロ時点以後、ヨーロッパ統一とNatoの軍事同盟をへて果たされる復興は、国内的によりも対外的に迅速に進んだ。自信の回復は、対外的な威信をあとにほとんどいつも一歩遅れて進んだのだった。

 映画プロデューサーのホフマン氏は「ドイツ連邦共和国の創設のいっさいは、錯綜する事情の不可解な抑圧のもとでおこなわれた」と述べる。その際、勃発した冷戦が助けになり、忍び寄る無実の弁明にとって逃げ道を開くことになった。「反ファシズム」はもうひとつの全体主義イデオロギーに対するプロパガンダの決まり文句へと萎縮してしまった。歴史家ゲッツ・アリー氏はこの政治的・心理学的自家治療を「氷結」と呼んでいる。60年代初頭の大掛かりなナチ裁判は新聞紙上で、誰もそれと関わりをもたない謀殺と故殺の世界からのニュースのように報じられた。われわれの隣人、われわれの親戚だって? われわれは連中とは関わりがない! 「それについて語ることは容易でない」と高齢の賢明なる警告者ハンスーヨヘン・フォーゲル氏(1926年生まれ、ヒトラーユーゲントの団長、国防軍下士官)は、ZDFのドラマを視聴したあと、述べた。

 本、戯曲、映画、テレビ、展覧会、写真がそれぞれ画期をなし、しばしば啓蒙活動のマラソン競争に痛々しい区切り目を入れてきた。1903年に生まれた政治学者オイゲン・コーゴン氏は、1939年9月から1946年4月までブーヘンヴァルト強制収容所に抑留されたが、1946年すでにスタンダードとなる著書「SS国家」を公刊した。この本はドイツで50万部以上売れた。

 1961年のエルサレムアイヒマン裁判は、哲学者ハンナ・アーレントが報じたが、事務官としての加害者でありユダヤ人抑留の組織者である人間の性格類型を脱魔神化することになった。この男の「純然たる無思想」を劇的に明らかにしたのだ。アーレントによれば、恐るべき「悪の陳腐さ」がそこで明らかとなった。アイヒマンは、自分の昇進に役立つことは何でもするという非凡な精勤さ以外にはそもそも何の動機も有していなかった。悪魔的魅惑を全然ともなわない痛ましい人物像であるが、しかしやはり普通ではない。

 1965年、西ドイツと東ドイツの15の劇場が同じ日に作家ペーター・ヴァイスの戯曲「追求」を上演した。その2年前にフランクフルトではじまったアウシュヴィッツ裁判の劇化である。そうした東西ドイツでの同時初演はかつてなかったことだった。

 学生叛乱の勃発直前の1968年に精神分析学者のマルガレーテとアレクサンダーのミッチャーリッヒ夫妻は「悲しむことの無能力(邦題:喪なわれた悲哀)」についての研究を著した。このタイトルは流行語となった。夫妻は、1945年以後のドイツ人を、おのれの自信喪失を痛みをともなう記憶の排除によってのみ耐え忍ぶことが出来、そのために顕著な感情の硬化に陥った社会として叙述した。

 68年世代の運動は、異端審問官ふうのラディカルな仕方で父親たちに釈明を求めたが、大きなことと自分たちの理想に身を捧げる構えにおいて無自覚のうちに父親たちに似ていた。ミッチャーリッヒ夫妻は「自分の両親をある程度まで現実に即して評価することを我慢して学ばなかった若者は、外的世界の他の分野に対しても盲目となるか、歪めて見ることになる」と評価した。「私たちの母たち、私たちの父たち」が試みたことは、自分たちの両親の矛盾に歪みのない眼差しを向けようとすることに他ならなかった。

 優に10年を経過した1979年、アメリカのテレビシリーズ「ホロコースト」はドイツの視聴者にヴァイス一家の運命を手がかりにしてユダヤ人絶滅の恐怖を明らかにしてみせた。悪名高いこのアメリカ発のお涙ちょうだいドラマは数百万人のユダヤ人がおもむいたガス室への苦難の道をかつてどんなドキュメンタリーも描いたことがなかったほどの迫力で描き出した。

 フランス人クロード・ランズマンは、9時間にわたる記念碑的作品においてまったく死体の山や衝撃的な映像をともなわずに「ショアー(虐殺)」を再構成してみせた。風景、表情を提示するのみの新しい仕方の想起だった。聴こえてくるもろもろの声が起こった出来事を告げている。かすかだが執拗な要求のような解放の映画だった。

 スティーヴン・スピルバーグ監督は1993年の娯楽映画「シンドラーのリスト」において善きドイツ人オスカー・シンドラーを描き出した。シンドラーは、ユダヤ人の囚人を自分の工場に雇い入れることによって数百人の人々の命を救った。悪の程度は、ひとりの善良な人の事例によって目立つものとなった。結局のところ善も悪も説明のつかないままである。なぜシンドラーは、彼が果たしたことを果たしたのか? シンドラーのそれが出来たとしたら、より多くのドイツ人はなぜそうしなかったのか?

 よりにもよってアメリカ映画「ホロコースト」と「シンドラーのリスト」が精神分析医ミッチャーリッヒが記憶としてイメージしていたことにもっとも近づいているようである。記憶力の努力の脇を固めたのは、歴史的な論争と政治イデオロギー的に負荷のかかった議論であり、それらは定期的に平和のうちに休らっていた福祉社会を震撼させた。

 ベルリンの歴史家エルンスト・ノルテ氏はもともと哲学を専攻した人でマルティン・ハイデガーの不運な弟子であるが、彼は1986年ほかの学者がかつてしたことのない程度において歴史修正主義的な挑発をやってのけた。ソヴィエトの「収容所群島」のほうがナチス強制収容所国家よりも起源において古く、ボリシェヴィキの階級殺戮は国家社会主義者たちのユダヤ人に対する人種殺戮のお手本だったというテーゼによって、ノルテはドイツの犯罪行為を道徳的無関心の瀬戸際まで相対化したのだった。

 10年後ふたたび、写真のもたらした衝撃ー処刑される者の前で笑ってにやついている兵卒の写真ーによって、ハンブルク社会研究所のドイツ国防軍展は90年代においてもっとも論議を呼んだ展示となった。二三の手仕事的な失策、順序や写真の添え書きの誤りにもかかわらず、この展示は清潔な国防軍という神話を致命的に破壊した。所長のジャン・フィリップ・レームツマ氏は「戦争は機会じかけのものではなくて、そこにおいて個人の決断が下される空間です」と解説した。この格率を忠実にまもって「私たちの母たち、私たちの父たち」はその不完全な主人公たちを自身の行為に対する責任から免れさせてはいない。

 ドイツ兵の「名誉」に対する憶測上の攻撃は論争に発展し、そのため展示は結局暫定的に中止されることとなった。総勢8百万人の兵士を率いる150以上の師団が1941年以降東部戦線では闘った。そのうちどれほどの数の兵士が犯罪行為を犯したか近似的にも明らかになるものではない。しばしば恣意的に過ぎる荒っぽい数字遊びは5パーセント以下から80パーセントにまで及んでいる。

 なぜ、見たところ平均的な市民であった人々が、ごく普通のドイツ人であった人々が殺人行為に及んだのか? いつでも悔い改める準備ができている一般的な心構えに対して1996年アメリカ人ダニエル・ゴールドハーゲンはさらに深甚な衝撃を与えた。彼の研究「ヒトラーの自発的な死刑執行人(邦題:普通のドイツ人とホロコースト)」においてゴールドハーゲンはドイツ人の集団的罪というテーゼをあらたに活性化させた。離れがたい罪にとらわれた加害者の国民というわけである。彼の主張によれば、ユダヤ人の絶滅はドイツ人の国民的な世紀的目標であり、言わば社会規範であったということになる。

 ドイツ人の基本状態はある意味で病理学的に、歴史的にも遺伝的にも条件づけられているというゴールドハーゲンの診断は、ドイツ人に悲鳴を上げさせた。罪悪感に対する赦しを拒絶されることほど人の心を傷つけるものはない。「歴史、より正確にはわれわれによってでっち上げられる歴史とは、詰まった便所だ。洗っても洗っても糞が高く積み上がる」とギュンター・グラスは彼の短編「蟹の横歩き」で太鼓判を押している。

 くりかえしメスを自分自身にあてがってみるような悔い改めの義務は、現代ヨーロッパ人の精神状態の本質的特長となった。ドイツは「後悔に打ちひしがれることのインストラクター」には事欠かない(この挑発的な定式化はフランスの哲学者パスカルブルックナーのもの)。それは記念施設、想起の場所などによって振りまかれ、その歴史はおそれとおののきのさまざまな記念日によって縁取りがなされている。

 外国は不信の念と尊敬の念のまざった眼差しでこの「永続的な悔い改め」、世俗化された政治的鞭打苦行を見つめているが、この苦行はほかのヨーロッパ諸国にもますますお手本として勧められるようになっている。この断罪の贈り物からどのヨーロッパの国民も自由ではなく、恥辱の裁量者にはいたるところに仕事がある。しかしながらこうした想起の拒みがたさは、ミュンヘンの古代史学者クリスツィアン・マイアーが主張する「忘却の掟」にも対抗できるだろうか? 古代においては悪しき過去に対処するのは、想起や傷をほじくることではなくて、忘却、特赦、治療薬であった。

 見たところ、ドイツ人にはこれは不可能であるようだ。止めを刺すべきなのは罪であって想起ではない。したがって持続される公的な謝罪もまたたいそう重要であり、そこにおいて言葉は行為となり、その行為は連帯と共生をもたらす。ただし永続的な悔い改めの態度が政治的・道徳的な麻痺状態にいたることは許されない。行動する責任が身を隠すことが出来るアリバイとなってはならない。

 罪をほんとうに悔いているのではなくて罪を楽しんでいるというような種類の良心の疾しさがある。カトリックの説教師はかつて好んで四種類の良心を区別した。すなわち善き平安な良心、善き掻き乱された良心、悪しき掻き乱された良心、悪しき平安な良心である。 最初のカテゴリーは断然射程範囲の外にある。ドイツは最後のカテゴリーに陥らないよう注意しなければならない、と総括できるだろう。

中国と日本の領土争い 「まるで100年前みたい」(フランクフルター・アルゲマイネ紙電子版 2012年9月23日 ペーター・シュトゥルム

 ヘルムート・シュミット氏(元ドイツ首相、社会民主党出身、現在ではリベラル派のご意見番として活躍)は、誰かが西洋で中国を批判することを好まない。注目すべきは彼のその理由づけである。中国がしていることは、何といっても、大英帝国やその他の列強が100年前にしてきたことばかりではないかというのだ。しかしわれわれはそうこうするうちに、大英帝国やその他の列強が100年前にしたことは帝国主義であって、したがって悪いことだったということを学んだ。だからといってなぜ、もちろんシュミット氏の中国の行動に対する評価が正しいと前提しての話であるが、中国を批判することは許されないということになるのだろうか?

 現在では中国は西洋でさかんに批判にさらされている。中国は、日本と、そして他のアジアの諸国とも島々と領海に関する争いでもめている。日本との論争ではとりわけ調子を高くしている。中国は、隣国日本に経済戦争の脅しをかけ、日本はそれを我慢できるか、それを望むのかという問いを突きつけている。

 この紛争はどうしても解決されなくてはならない。しかしそれは、両陣営にそれに対する用意ができていることを前提する。両国からそれぞれの言い分を聴くことはあまり役に立たないだろう。「どうしようもない」というモットーにもとづく古い偏見が説得力をもつことになる。そのつど他方の側がこの偏見を印象深く確証しているように思われるからである。

 両国の世論が同じように非妥協的な姿勢を示している一方で、両政府の態度はことなった様相を示しているようだ。日本はその領土拡大を1945年に流血をともなう敗北でもってあがなった歴史をもつ。それに対応して日本政府はつとめて平静たろうとしている。それは選挙戦が開始する時期に当たってかならずしも容易なことではないのであるが。これに対して中国は19、20世紀において列強によって多くの損害をこうむらなければならなかった歴史をもつ。しかしこのことは中国を外交政策の分野においてかつて他の諸国がとった方策を、いかにその方策が信用を落としたとはいえ、そうした方策を断念させることにはならなかった。自国の影響範囲の拡張は、列強の政策としては「古典的」なものである。そのうえ中国政府は世界中からほとんど毎日のように、中国こそは21世紀の単独の成功者だとささやかれている。だから、成功者としての信念が北京でしだいしだいに根を張っていたとしても不思議ではない。中国がその「古典的な」政治手法でやり過ぎたとして、そしてこのことは残念ながらあり得ない話ではないのだが、そのやり過ぎは実際にはとっくの昔に克服されたと信じられている時代への逆行を意味するだろう。

 いまほど政治的理性が問われているときはかつてなかった。中国指導部が政治的理性を使いこなそうと思えばできることは台湾の場合が示している。そこでは北京にとっての「心情にかかわる事柄」が問題になっているとされている。しかし台湾の人々が合併に対するいかなる憧れをも有していないということを度外視しても、北京はいまのところ現状を受け入れている。

 だから東シナ海の島々をめぐる争いの場合は同じような具合になぜ行かないのかが問われることになる。中国の態度は、ここでは端的に膨張が問題なのだという疑惑を抱かせるようなものである。もちろん、中国における多くのデモ参加者が本当に怒っており、隣国日本に対して反感の気運を煽り立てる者こそが愛国者であると考えていることはその通りだろう。結局のところ責任は中国政府にある。政府は島々を争点化し、そうして住民に対してみずからをぎりぎりの状況に追い込んだのだ。

 そのかまびすしい態度表明で中国政府はルサンチマンを呼び起こし煽り立てている。北京で理性が勝利をおさめるならば、抑圧に手慣れた中国政府はかならずやさらなる抗議運動を首尾よく押さえ込むだろう。しかしこのことは、単独の党(=中国共産党)の威信のさらなる低下を帰結するだろう。内政においては中国政府は、それに付け加わるすべてのものとともに汚職まみれであることで際立っている。そしていま、指導部の内外のナショナリストたちが論議しているところによれば、中国の指導部は傲慢な外国に対する国家の「名誉」さえ守ることが出来ないだろうということになる。このような考え方が首尾一貫たどられるならば、中国の共産党員たちはさらなる問題を抱え込むことだろう。ともあれ、切羽詰まった権威主義的指導者ほどに危険なものはあまりないというのは周知のことがらである。

 いま性急に戦争の危険性を思い描くべきではないだろう。しかし中国の指導部を窮地から救うことは努力してみる価値がある。アメリカ合衆国は日本を同盟国として理解し遇しているという意味では中立とは言えないが、一定の役割を果たすことができるだろう。その他の諸国、たとえば東南アジアの指導的勢力であるインドネシアなども中国と対話を交わすよう努力できるし、またそうすべきである。いずれにしても、東シナ海南シナ海における島々をめぐる紛争を中国がそのつど当事国同士で「解決」しようとするままに任せることは許されない。

 おそらくどんな道筋をとっても、この紛争は短時日では解決不可能であるという認識を無視することはできないだろう。したがって紛争の当事者たちが、ここには様々な見解の対立があり、残念ながら現在のところ一致することはできないでいるということを納得するならば、それだけでも大きな進歩であることになろう。しかし偉大なる中国にこの大きなことがらが果たせないであろうか? それを果たすならそれは、100年前に大英帝国やその他の諸国が為した以上のことを果たしたことになる。そうなれば、中国に対する批判もより少なくなることだろう。

マルティン・ヴァルザー「正しいヨーロッパ」(フランクフルター・アルゲマイネ紙電子版 2012年8月20日)

 毎晩、わたしたちは「ヨーロッパ債務危機」について意見を交わし合っています。そのためわたしの家では居合わせた専門家を、おまえはヨーロッパを(なおも)志向するのか、あるいはおまえはわれわれをユーロのない多元的な通貨体制に立ち戻らせようとするのかといった質問で問いただすことになります。

 ヨーロッパ連合は同時に一体の通貨体制でなければならないという意見にわたしは賛成です。ユーロが存在している。それはひとつの通貨である以上のものです。それはコミュニケーションの媒介者であり、ヨーロッパでは誰もが理解できるひとつの言語であります。現在、ひとつのヨーロッパの国が(ギリシアのこと)ユーロに別れを告げねばならない、外国為替の時代に逆戻りしなければならない、という意見が様々に論じられていますが、まったくとんでもない話です。そんな考えは捨てなければなりません。数年前、スイスの保守主義者クリストフ・ブロヒャー氏は、スイスに関してですが、通貨同盟というものは単一の国庫なくしては立ち行かないと述べました。このことを、このところわたしたちは自分自身の金融体制で身をもって痛感させられています。単一の国庫のないままに思い切って単一の通貨体制が敢行されたのは幸運なことだったのです。単一の国庫はこれからでも遅ればせに設けられなければなりません。これは実務的に解決可能な課題であって、ヴィジョンといったものによって解決されるものではなく、制定されるべき法制度によって一歩一歩解決されるものです。そしてそうなると、共通通貨のせいでヨーロッパ人は文化的な多様性を均等化してしまうのではないかと尊大に問題にする専門家が出てくる。

 共通通貨と相互に調整された簿記とは、そのつど通用している支配的な外国語(フランス語や英語のこと)でも無理だったように、文化的・精神的多様性を均等化することはありません。ヨーロッパは、地上の他の地域では例がないほど、国境を越えて学び合い理解し合うという高度な伝統を有しています。もし何かについて経済学者が気をもむ必要はないとすれば、それは文化的多様性についてであります。ヨーロッパの文化的多様性はたいそう古く、たいそう確固としたものでありますから、安心して経済的なコントロールに任せることができます。共通の経済的管理に向けて責任を持つこと、それが目標であります。金融市場の制御はいまでは誰もが期待していることです。そして対応能力のある中心機関としてヨーロッパ中央銀行が存在しています。それで十分です。

 わたしたちは、共通の価値観を育んできた数世紀を共有しています。ユーロは言わば生まれるべくして生まれたのです。それは「無理やり付け足された」ものでは決してない。ユーロをもつだけのものにわたしたちはなっていないと言ってユーロを非難する意見にはわたしは納得できません。その理由として主張されるのは純然たる経済主義であります。ドイツ国内ですら財政調整(国と地方自治体間の)について文句がつけられているのです、連帯というようなものは経済学者にとっては外来語なのだということが見てとれます。

 しかしまた、あちこちで(スペインやイタリア)生じている債務の負担をヨーロッパ全体で「一般化」できるようにわたしたちに「システム上の」修正をもとめる意見にもわたしは納得できません。そうした意見の理念的支持者のうちの誰も、パウル・キルヒホフ氏(ハイデルベルク大学教授、憲法および税法の専門家)ほどの信頼感をわたしに抱かせません。キルヒホフ氏は論を立てるのに、国民経済に介入することのできる新たな上級政府のヴィジョンなしで済ましています。彼は綱領的に借金を増やすことの無法性を指摘し、適法なあり方へ立ち戻ることを要求しているのです。実際、適法なあり方は存在しています。

 わたしたちに残されている選択肢は、続々と現れる専門家に同意するか、あるいは彼らの主張を拒否するかだけです。わたしの信頼を保証してくれる人は、まったく散文的なことこの上ない話ですが、れっきとした専門家たるショイブレ氏(現財務大臣)であるとせざるを得ない。

 しかし他ならぬヨーロッパが問題であるがゆえに、わたしたち文学の徒でもすでに相当の年期を積んでいるとわたしは考えています。これと比べれば政治家や専門家にとってヨーロッパは何だと言うのでしょう? そのような文脈でわたしが思い出すのは、当然ながら、シェイクスピアでありハムレットでありヘカベのことであります。それこそヨーロッパなのです!

 1799年の事例をひとつ。フリードリヒ・ヘルダーリンは友人ノイファーにあてた手紙で「文学に関する月刊誌」の計画を披露しています。その雑誌の論文は「古今の詩人の生涯の特徴的な性格、彼らが育った環境」などを含むことになるはずでした。「そうしてホメロス、サッフォー、アイスキュロスソフォクレス、ホラーティウス、ルソー(「新エロイーズ」の著者として)、シェイクスピアについて述べられるのだ。」「彼らの作品の特徴的な美しさ」も述べられるはずでした。「「イリアス」とくにアキレスの性格、アイスキュロスの「プロメテウス」、ソフォクレスの「アンティゴネ」「オイディプス王」、ホラーティウスの頌歌について、シェイクスピアの「アントニーとクレオパトラ」について、「ジュリアス・シーザー」のブルータスやカッシウスの性格について、「マクベス」についてなどなど。」

 やはり1799年の別の手紙にも次のようにあります。「しかしドイツ人のうちもっともすぐれた人たちでさえ、まだまだたいていの場合、世界が美しいシンメトリーさえ描いていたら、どんなことがそこで起こってもかまわないなどと考えています。おお、ギリシアよ! おまえの天才、おまえの敬虔さ。おまえはどこに行こうとするのだ?」わたしがこれを引用するのは、ギリシアがいまユーロ問題の焦点であるからではありません。そうではなくこれが、当時24歳、ニュルティンゲンの詩人が他のヨーロッパの国々とどんなに一緒に生きていたか、この外国(ギリシア)がどれほど彼にとっての自国であったか、この国がどれほど彼の意識に、彼のアイデンティティに帰属するものであったかを示しているからであります。これはこういうことです。文学はつねにすでにヨーロッパ的であった、ヨーロッパはわたしたちの文学的故郷なのです。

 ドイツ語はヘルダーリンの頌歌におけるほどの職人的な完璧さに達したことはありません。そしてその詩節の韻律は、彼がアルカイオスとアスクレピアデスから学んだものです。まったくあたりまえというようにこのドイツ語の詩は純粋にギリシア的な韻律で響きわたっています。

 

 わたしの心は神聖ではあるまいか、より美しい生に満たされて

 わたしが愛を知ってからというもの?なぜ諸君はわたしにより以上の関心を注ぐのか、

 わたしがより誇らかに、より猛々しく

 より言葉豊かに、より空疎になったせいか?

 

 古い至福の岸辺で

 わたしを捕らえ、わたしがわたしの祖国よりも

 あなたをより以上に愛するようになった、

 あれは何だ?

 

 ………

 アポロが歩く

 王の姿でと石たちが言う、

 そこにわたしはいる

 

「ムネモシュネー」は荒々しい後期の詩です。ムネモシュネーというのは記憶の女神です。ウラノスとガイアの娘、すべてのミューズの母、もちろんゼウスの愛人でもありました。

 

 イチジクの木のところでわたしの

 アキレスは死んだ、そして

 そしてアイアスは横たわっている

 海の洞穴のところ

 ……しかしキテロンの山に横たわるのは

 エレウテレ、ムネモシュネーの町……

 

15歳のときこれを読んだなら、この調べによって、この形象の完璧な確固さによってどうして魅了され魅惑されずにいられましょうか。

 

 火に浸され、煮られ、熟するのは

 果実……

 

そしてわたしにとってあらゆる詩のなかでもっとも大きな印象を残している詩「平和の祭り」では、「わたしたちが会話を交わし互いに話を聞き合ってからこのかた」という詩行が鳴り響いています。「おまえ、決してひとを信用することのない宥める者よ/いまおまえはそこにいる……」というように「祖国の歌」のうちのひとつの詩ははじまり、抵抗しがたい力でわたしを連れ去ったのです。もちろんそうした感動的な作品に出会うことは無数にある。人は作品につかまれる。そのようにして人は、最晩年のニーチェに対して、最後にあたり自分のことを「哲学者ディオニュソスの弟子」と呼んでいるニーチェに対して心の準備をすることになるのです。そして彼の「ディオニュソス・ディテュランブス(酒神讃歌)」において、高らかな調べにみちた彼の著作家としての存在は最高の調子に達するのです。

 彼の最後の手紙にニーチェは「十字架に架けられた者」とも「ディオニュソス」とも署名しています。専門的な注釈家たちはこれを「発狂」のせいにしている。彼らは同時にこの「発狂」を、ニーチェがトゥーリンの公道で馬にキスをしたというエピソードで説明してみせています、すでにホメロスがアキレスの馬を泣かせてみせているということを知らないままに! わたしもこのことを最近ヘーゲルを読んで知ったのでした。そしてニーチェは彼の初期の荒々しい本、わたしたちの内面生活をアポロン的なものとディオニュソス的なものとの決して終わることのない闘争として描いた「音楽の精神からの悲劇の誕生」を論じた、ギリシアについての本を次のように締めくくっています。「……かくも美しくなり得るために、何という多くの苦難をこの民族は耐えねばならないことか。」

このギリシアに対する祝福は、詩人たちがすでにつねにいかにヨーロッパ的であったかを確かめるために謳われたのだということをわたしは忘れません。そしてニーチェは、かつてドイツ語で表現した者のうちでもっともヨーロッパ的な存在でした。まさしく「ディオニュソス・ディトュランブス」において。そこで彼は跳躍しています。

 

 もう一度うなる

 倫理的にうなる

 ……

 ヨーロッパ人の熱狂、ヨーロッパ人の渇望!

 そしてそこにわたしはすでに立っている、

 ヨーロッパ人として、

 わたしは別様ではあり得ない、神よ、わたしに助けの手を!

 アーメン!

 

 すでに「人間的な、あまりに人間的な」において彼は「ヨーロッパ人という文化概念」を鋭く研ぎすまし、それに「ギリシア、ローマ、ユダヤ、キリスト教のうちに共通の過去をもつすべての諸民族と民族の一部のみ」を数え入れています。道徳、流行、哲学、政治、宗教、芸術、何であれ自分を動かす一切のものを彼はつねにヨーロッパ人としても結び付けています。そこには悪もふんだんにありますが、しかし光に満ちたものもまたふんだんにあるのです。まったくちがった例としてここでは「善悪の彼岸」の第七章冒頭を挙げておこうと思います。「われわれ明後日のヨーロッパ人、われわれ20世紀の初子ーわれわれの危険な好奇心、われわれの多様性と仮面の術、精神と感覚における脆くなった言わば甘味のついた残酷さを有するわれわれーこのわれわれが徳をもつべきであるとすれば、われわれは、われわれのもっとも熱い欲求ともっともよく折り合いがつく徳だけをおそらくはもつであろう。……自分自身の徳を求めることよりも美しいことがあるだろうか? これはもうほとんどすでに、自分自身の徳を信じることと同じではないか?……これはしかし根本的には、以前彼の「疾しくない良心」と呼ばれたものと同じものではないか? ……一点においてわれわれはやはりこの祖父たちの然るべき孫なのだ。われわれ疾しくない良心をもつ最後のヨーロッパ人……ああ! このことが間もなく、すぐにも変わってしまうことを諸君が知っていてくれれば。」

 これが出版されたのは1885年でした。オーバーエンガディンのシルスマリアで書かれた序文の結末にはこうあります。「しかし、ジェスイットでも民主主義者でもないわれわれ、十分にドイツ人ですらないわれわれ、われわれ良きヨーロッパ人にして自由な、とても自由な精神ーこのわれわれはそれを、精神の全危急とその弓の全緊張をもっている。そしておそらくは弓矢をも、あの課題を、誰知ろう、あの標的をももっているのだ。」要するにです、まわりであらゆる学部がなおナショナリズムのために奉仕しておしゃべりしていたときに、どんなにヨーロッパ的にものを考え書くことができるかを示した人物がいたとすれば、それがニーチェだったのです。

 ニーチェは、ヘルダーリンとならんで、もっともギリシア的なドイツ語の著作家であることは確かなことです。ヘルダーリンは彼の唯一の散文作品「ヒュペーリオン」のことを副題で「ギリシアの隠者」と呼び、ギリシア人に姿を変えて、ドイツ人におのれの苦悩の物語をギリシアの衣装を身に着けて語ったのでした。ギリシア同様、フランスもイギリスもイタリアもスペインもその他その他もドイツの詩人たちにとって重要であった点で変わりありませんでした。

 1771年10月14日、ゲーテはフランクフルトでシェイクスピアの日を記念して公演をおこないました。それをもって「シュトゥルム・ウント・ドランク(疾風怒濤)」と呼ばれる運動が始まります。「わたしがシェイクスピアを読んだ最初のページがわたしを生涯にわたって虜にしてしまいました。最初の一冊を読み終えると、魔法の手によって一瞬のうちに視覚を取り戻した盲目の人のようにわたしは立ち尽くしました。」これ以来シェイクスピアはドイツの舞台を支配しており、わたしたちすべてを繰り返しこのイギリスの天才の同時代人にしてくれています。

 どんな方向性ものであれ、ドイツ文学は、それがヨーロッパ的であるとき、もっとも生き生きとしています。ドイツ文学はいつでも、外国に赴いたあとではじめてドイツ的たりうるのです。「ボヴァリー夫人」は感受性の危機に対する激励なのであって、誰もがこれを読むことで何をもって人は感動することができるかを体験することになります。どんなに激しく悩むことが許されるか、これをわたしたちに示したのはストリンドベリでありました。魔法を呼び出す幼年時代をわたしたちはプルーストによって経験するのです。などなどであります。

 現在わたしたちすべての議論の的になっている正しいヨーロッパをめぐる論争において、わたしを納得させるのはいつでも、是々非々で対応するがつねにヨーロッパを志向して決して後戻りしない専門家であります。用心深い人には説得力がありますが、迷わない人は説得力がありません。少なくとも、政治的な力の計算が行動の意図を規定しているような場合、わたしには賛成する用意があります。ことの進行を妨害する者がしたい放題しようとするような場合、わたしはそれを事故だと見なします。あまりにも多くを要求する者が、そのことで、そもそも捗らない行動を、場合によっては迷いのない傾向によって、頓挫させるとしたら、それは残念なことです。

 若年層の失業率はわが国では8パーセント。南欧諸国では50パーセントにまでなります。わたしたちは数千年の歴史で何を吟味し何を学んできたのでしょう!そしてまさに他者に欠けるものがあるいま、わたしたちは援助の手を差し伸べることができます。そのために上級政府を設置する必要はありません。

 ドイツ連邦共和国は、戦後のマーシャルプランによって力をつけるために、いかなる「システム上の」変更も遂行する必要はありませんでした。可能な解決のための「住民投票」というものをわたしは想定しようとは思いません。わたしたちはバイエルン化を恐れる必要はないが、不安を焚き付けることは最悪です。(われわれの政府の)現今の路線(ギリシア援助)に反対する専門家のほとんどは、自論が貫徹できないとなると、大破局を予言します。このこともまたわたしをしてパウル・キルヒホフ氏に好感を持たせる。「こうしたすべては事故でもなければ、危機でもない。移行の表現である。」とキルヒホフ氏は述べているのです。(そのキルヒホフ氏が「ハイデルベルク出身の大学教授」として頭ごなしに叱責されたのはどうしたわけのことでしょう!)

 以上、わたしたちのヨーロッパを志向する文学の長所にいくつか光を当ててみました。ドイツ語は、歩くこと、走ること、踊ること、スキップすることをギリシアで、プロヴァンスで、イギリスその他で学んだのです。

 ルターが聖書をドイツ語に翻訳していなかったとしたら、わたしたちの言葉がどうなっていたかは想像できません。プロテスタントの牧師の家の息子たちのことを考えてみるだけでいい! ニーチェカール・バルト、ゴットフリード・ベン。そしてヘルダーリンはかくも歴史的影響力の強い言葉を語ることはできなかったでしょう。「……というのもあまりにもはなただしく/おお、キリストよ、わたしはあなたを愛している。どんなにヘラクレスの兄弟が」経済を語ったとしても。わたしたちは外国からの輸入によって無限の利益を得ているのです。

 「母なる自然よ、おまえの発明なる華美の見事なことよ、/野原に振りまかれて。」1751年、このようにクロップシュトッックはチューリヒ湖に捧げた頌歌をはじめています。アスクレピアデス調の調子です。アナクレオン、アルカイオス、アスクレピアデス、サッフォーに学ぶ以前にはドイツ語はこれほど柔軟ではありませんでした。こうした作品を時宜を得て読んだとすれば、その印象は彼を去ることはなく、あらゆる想起を契機として全体を呼び戻すことでしょう。すなわちそれがヨーロッパなのです。

 いま問題されている諸国民が(ギリシアやスペイン)わたしたちの援助によって、かつてドイツを危機から救い出したような自分自身の発展に成功しないはずがあるでしょうか? 2008年にアメリカ合衆国から押し寄せてきた危機(リーマンショック)はあらゆる関与者の賢明なふるまいによって模範的に克服されたのではないのでしょうか?

 専門的知識の化粧をした小心さが発言権を得ることを許してはなりません。逆戻りは正しいヨーロッパを、想像不可能なほど昔の歴史のゴミの山に放り投げてしまうことになるでしょう。そうなれば正しいヨーロッパはもはや考えることもできません。しかしこれをこそ考えねばならないのです! ヨーロッパは見本市に値する。このこともまたわたしたちは学びました。フランスで。わたしたちはわたしたちであることを学んだのです。ヨーロッパはまた学びの共同体でもあるのです。

 すなわちヘルダーリンは語りました。「そして世界の罪、知識の理解しがたさ/仕事の忙しさが常なるものを超えて生い茂ってしまう……」しかし彼はまた次のようにも述べています。「危険のあるところ/救いもまた生い育つ」。

 以上、これだけのことは言ったとしても許されるでしょう。正しいヨーロッパはエリートクラブでもないし上級政府によって統治される国家連合でもない。正しいヨーロッパは学びの共同体であり、自由意志と自己規定に基づいているのです。

 そしてこれ(自由意志と自己規定)こそがヨーロッパが世界に向けて提供できるものなのであります。

ギュンター・グラス問題について亡命ユダヤ人の歴史家フリッツ・スターン氏が語る(フランクフルター・アルゲマイネ紙のインタビューから)

グラス問題についてフリッツ・スターン語る

 

重苦しい帰結をともなう挑発

 

2012年4月13日

批判の必要性は告発のこのような形式を正当化しない。ギュンター・グラス、彼の詩に関する論争、イスラエルに対する建設的批判についての歴史家フリッツ・スターンとの対話

 

「スターンさん、ギュンター・グラスの詩を読んでのあなたの最初の反応はどのようなものでしたか?」

最初の反応は悲しみでしたーそして残念に思う気持ちです。なぜなら、グラスはこのことで自分自身を傷つけていることに私はすぐに気がついたからです。この詩は実際一種のおそるべき自己毀損です。彼が事態を損なったことにも当然ながらすぐに私は思い至りました。

 

ギュンター・グラスを個人的にご存知ですか?」

彼のことはよく知っています、何十年も前からです。ベルリンのニート通りの彼の家で過ごした晩のことは忘れません、1966年か67年でした。私は彼の『ブリキの太鼓』に非常に感銘を受けていて、それに彼の政治的なアンガージュマンも評価していました。それから私たちは手紙を交わし合うこともしました。私は半年間コロンビアに、私のニューヨークの大学に彼を招こうとしました。これは上手く行きませんでした、彼のほうに時間的な不都合があったためです。私もまたヴェトナム戦争の反対者でしたし、この戦争を自国にとって害をなすものと見なしていましたが、グラスの反アメリカニズムは奇異なものに、退屈なものに思われました。70年代の終わり、80年代の初めごろから私たちはほとんど会っていません。

 

「この詩はグラスについてのあなたのイメージに適合するものでしたか?」

しばらく時間をおいてようやくのことです。彼はすでに長い間道徳の唱道者をもって任じてきました。これに対して彼が武装SSの一員だったことは私にとっては意想外のことでした。このことがいま強調されていることは私にはアンフェアなことに思われます。ドイツにおける論争全体がそうなっています。

 

「この論争のどこがあなたの気にさわるのですか?」

過度に個人攻撃に偏していますし、それにくりかえし武装SSの強調です。悪いのは未成年時代に彼が武装SSの一員だったことではありません。そうではなくグラスがそのことを長年のあいだ黙っていたことです。しかしいまでは私は、グラスはずっと黙り通していたらよかったのに、と言わなければなりません。彼は沈黙の効用をよく心得ています。ニーチェの「洗練された沈黙」という言葉が思い出されます。グラスはみずから洗練された沈黙を用立てていました。彼は長年のあいだ武装SSのことは沈黙していて、同時にドイツの公衆を叱りつけていたのです、「諸君はじゅうぶん自身の事柄に取り組んでいない、自身の過去をじゅうぶんに意識していない」というようにです。この叱り言葉は実際彼自身に当てはまります。

 

「そしていまでは彼は自分が呼び起こした幽霊をふり払うことができないというわけですね。」

彼がこのような論争の形式についてみずから大きな責任を有していることは明らかです。しかし彼を反ユダヤ主義者と言って非難することは気に入りません。『ブリキの太鼓』の中におもちゃ屋を商っているズィギスムント・マルクス氏なるユダヤ人が出てきます、私の記憶が間違っていなければ、彼は自殺するのです。それはたいそう見事に、感情を込めて書かれていて、あの時代の他の物語には見られないほど感動的でした。こんなのを反ユダヤ主義者が書けるはずがありません。

 

「残念ながら、芸術上の共感能力が作家自身をかならずしもいつでも憎悪の感情に抵抗せしめるわけではありません。」

そうかも知れません。しかし、イスラエルを批判する者はそのことゆえに反ユダヤ主義者だと考えることは危険なナンセンスです。「ニューヨーカー紙」の編集長デイヴィット・レミニックは最近イスラエルに関する重要な記事を発表し、その記事を今週「ツァイト紙」が掲載しています。イスラエルの政治文化が問題になっています。ひとりのユダヤ人によって書かれた、それも私たちがアメリカに有している最も重要な新聞に書かれた記事です。それは、私も分け持っている大きな憂慮です。なぜイスラエルに暮らしているのではない私たちが、過去を傷もつドイツ人さえもが、このような事態を正確に語る権利を持たないのでしょうか、多くの立派なイスラエル人をふかく動揺させるのと同じ憂慮に駆り立てられて?

 

「しかしドイツ人としてイスラエルの政策を批判することはじゅうぶんに可能です、適切な調子でおこなわれる限りで。その限りで、私はグラスがタブーを破ったとは思いません。彼がこの詩を書いた動機は何だと思いますか? ほんとうの憂慮でしょうか、それとも単なる論争好きからでしょうか?」

この詩は若干の正しい発言ないし見解を含んでいますが、多くは誤りです。それは一種の混合体で、きわめて遺憾なものと言わざるを得ません。同様の警告を発している人は大勢います。だからいかなる事情にあっても、反ユダヤ主義的だとか、あるいはイスラエルに対して無関心であると解釈することは出来ず、憂慮に発したものであり得るのです。しかしこの詩には多くの誤りがあります。それに自分は核兵器について幾ばくかの理解を有しているという彼の傲慢は人を唖然とさせるものです。

 

「そうなるとグラスの目的は建設的な批判を行使することではなくて、純粋な挑発ということになりますね?」

まったくそうです。あなたは正しい言葉を選びました。これは挑発です。情状酌量の余地であるとか素人ゆえのナイーヴをグラスに帰そうとは思いません。彼は自分の発言の射程距離を自覚していたのに違いありません。さもなければこの詩を同時に国際的に発表しようという気は起こさなかったでしょう。だからこれは意図的な挑発です。このことで彼は何かを解き放ちました。少なくともドイツの内部で、恐るべきものを。人々がこのような挑発を皮肉な笑いを浮かべて「無視しろ」とつぶやいて片付けていることは残念なことです。このテーマに関してはあり得ないことです。しかしおそらくこうした方向に調子を与えているのです。

 

「どういう意味ですか?」

グラスの場合、不幸な伝統への連続性があります。ふつうの人以上のことを認識する、崇高な警告者にして予言者としての詩人という伝統です。これは相当にドイツ的ではありませんか? 批判しなければならないのは、彼がことにおよんだその仕方です。「抹殺」というような歴史的に負荷のある概念の使用していること、イスラエルとイランを同列視していること、それに彼がさらに「西洋の偽善」を云々している場合、この偽善はすでに彼が長いこと批判してきたものですが、結局のところ、自分自身については真実を言わないでいて、道徳の権威たろうと彼が要求することのうちにはこうした一抹の偽善があるのです。こうしたすべてを私は重苦しく悲しいものに、ふざけているような印象を与えるものに感じます。というのも、すでに言ったように、イスラエルの内的状況について、それと結び付いてイスラエルの外交政策について憂慮に満ちた問いが生まれる時節であるからです。このような事態にグラスは大きな損害を与えました。もう一度強調しますが、私はとりわけ悲しいのです、グラスは卑しい馬鹿げた事柄を別の側から呼び起こすことに成功したのです。

 

「イスラエルでの反応をどう評価しますか?」

繰り返しますが、これは意図的な挑発のようなものです。これに対する応答、とりわけイスラエルの公式な応答は拙劣なものです。イスラエルの内務大臣がグラスを「好ましからぬ人物」と宣言し、入国禁止を布告したことは賢明とは言えないやり口です。グラスにはよりましな情報を与えられるべきだ、とりわけ彼がイスラエルの友人であると申し立てている場合には。そうイスラエル人は言うべきだったのです。「ハーレツ紙」がイスラエル政府の応答をヒステリックだと書き、同時にこの詩を非難したことは正当なことです。グラスはそうした反応のうちに自己の真価が認められていると感じることも出来たのです。

 

「イスラエルと「分ち難く結び付けられている」と自分は感じていると、グラスは言っています。」

どうぞご勝手に。しかし彼の気に入るようにするには、「あなたはたいそう重要人物なので、私たちはあなたに入国を禁じたのです。」と言ってやらなければならないでしょう。これは一種のお墨付きを得た傲慢です。馬鹿げていて危険です。

 

「「そのような友人を持つ者はもはや敵を必要としない」という言葉がここにもおそらく当てはまるでしょう。私があなたの言うことを正しく理解しているならば、いま必要なのは、無意味な挑発ではなくて、イスラエルの現在の政策に対する建設的な批判だというわけですね。」

まさにそのとおりです。例えばレミニックがしているような、広い意味でのイスラエルの政策を批判することは、私の見解では、連帯の行為であり、勇気ある行為でもある。ところでアメリカで私が観察するところでは、現在のイスラエル政府すなわちイスラエルの右派勢力と、しばしばファナティックに宗教的になるアメリカの右派勢力との連携は、イスラエルにとって危険であるし、またアメリカの内政・外交上の政策の脅威でもあります。反対意見もまた存在していることを付け加えなければなりません。レムニックのような個人レベルの声ばかりではなく、徹頭徹尾民主的なイスラエルの味方であり、民主的なもの・平和的なものを支持しようとしているJストリートのような組織もあります。彼らはAipac(アメリカ・イスラエル公事委員会)と対立関係にあります。Aipacはアメリカではずっと強力な親イスラエルと称している組織ですが、残念ながら不適切に重要な内政上の役割をアメリカで果たしています。それはネタニヤフと彼の支持者との特別な連携です。ジョー・リーバーマンのようなゾッとさせる人物やアメリカの極右については言うまでもないでしょう。そこに私は、すでに言ったように、真の危険を、アメリカのユダヤ人の生活にとって持続的な危険を見ています。イスラエルにとって偽わりの友人もまた存在しているのです。

 

「現在のイスラエルの指導部についてどう見ていますか?」

彼らは過激で、攻撃的で、不器用です、すべては内的な弱さに発しています。何人ものアメリカ大統領を侮辱している。有意義でしょうか? ネタニヤフのアメリカの内政への干渉は不相応であり危険です。いつかしっぺ返しを食うでしょう。私にはとても金持ちの共和党員の知り合いがあります。彼が2008年の選挙のとき私の評価を質問してきました。彼はこれまでずっと共和党を支持してきたのですが、マケインとオバマとでどちらを選ぶか決定できないでいたのです。とりわけ自分にとって重要なのはイスラエルだと彼は言いました。そのとき不意に私の口をついて出たのは、「歴史的な比較をお許し願いたい。1917年に中央ヨーロッパのユダヤ人の中にはボリシェヴィキの革命を解放、自由化、同権へのチャンスとして歓迎するものがいた。それは私には理解できる。結末はユダヤ人にとって決して良いものではなかったが。」という言葉だった。そのことで私が言わんとしたのはー私はその人を説得さえしたのですがーイスラエルの右派とアメリカの右派との現在の連携はせいぜいが幻影に過ぎない、結局は悪しき過激な幻滅に終わることになるかも知れないということでした。もう一度強調しますが、私はAipacの介入と役割を危険なものと見ていますし、深い意味で反イスラエル的だと思っています。イスラエルそのものに関して言えば、民主主義のことを心配し、その心配をおおやけに発言する重要な声が存在していることを私は承知しています。

 

「作家のデイヴィト・グロスマンは最近そのような意味で発言しました。」

そのとおりです。グラスがそのことに言及しなかったことは私にはとりわけ残念です。周知のように彼が介入を嫌っていなかったら、彼はイスラエルにおける最も深く最も内的な論争に介入することも出来たでしょう。彼がその詩で道徳的要求を掲げていたとすれば、彼は少なくともイスラエルの野党勢力を承認することが出来たでしょう。しかしこのような忠節さは彼にはまったく欠けていました。

 

「敵対的な体制に囲まれているイスラエルの状況を思い浮かべてみて、あなたは政治的解決へのチャンスを見ているのですか?」

ギュンター・グラスとは違って、わたしは現在のイスラエルの対イラン戦略の問題についてものを言うことには慎重でいます。私はアメリカやドイツの専門家の懐疑的な意見に賛成です。たとえばヴォルフガング・イシンガーのような。彼らは専門的知識にもとづいてイランへの攻撃に警告を発しています。イスラエルとその社会の健康状態についてはおそらく私はよりよい判断が下せるでしょう。イスラエルではファナティックな宗教的要素がたいへんに増大しています。このような展開は現実に民主主義にとっての危険を示しています。それに駐留の延長は恐ろしいことですし、民主主義国家としてのイスラエルを非常に損なっています。いずれにしても頑迷さは可能な解決への前提条件ではありません。イスラエルの状況はひょっとすると極めて深刻です。それは実際、想像を超えたトラウマから生じています。ショアー(大虐殺)から単純な教訓を引き出すというように唆されなければいいのです。アルベルト・アインシュタインはドイツを大量虐殺の国と見ていたシオニストでしたが、シオニストはアラブ人と折り合いを付けなければならない、さもなければ彼らはあらためて残酷な運命をこうむることになるだろうと彼は言いました。人はいつも最悪の事態ばかり想定するということは出来ないものです。防御的でありつつ攻撃的であることは出来ません。別の側では武器を持って攻撃的であることを私は承知しています。私はイスラエルの不安を理解します。これ以上言いたくありません。

 

「イスラエルは、自身から外国での連帯を失わせしめる危険を冒しているのでしょうか?」

イスラエルは外国にいる非常に多くの善意の人々を逸しています。アメリカではAipacが企てているような内政上の介入という過激な手段によってそうしています。繰り返しますが、駐留やひどい取り扱いについては言うまでもありません。そのうえで私は付け加えますが、ショアーを道具化することは許されません。1963年の六日間戦争のときイスラエルに対する共感がどんなに大きいものだったか、1973年のヴィリー・ブラントがイスラエルを決定的に援助したときもそうでした、そのことを思い出してみたらいいのです。偉大な戦車隊司令官のイスラエル・タール将軍は私に言いました、第四次中東戦争の偉大な勝利の日に、すべてを私たちは返還しなければならないと自分は言ったと。そこでやり過ごされてしまったとは何てことでしょう! 私はニーチェの1871年の言葉を思い出します、「大なる勝利は大なる危険である。」ラビンはこのことを理解していたのだと私は思います。イスラエルの狂信主義者によるラビンの暗殺は象徴的にも事実的にも恐るべき破壊をもたらしました。当時私は、自分たちの故郷を失ったパレスティナ人もまたヒトラーの直接の犠牲者なのだと書きました。これを非常に悪くとる人もいました。しかし批判的イスラエル人の態度を共感を込めて考慮し、ないし援助することは私たちには許されているし、そうすべきなのです。

 

会話を交わしたのはフェリキタス・フォン・ローヴェンベルクでした。

ギュンター・グラスのイスラエル批判をめぐるテレビ番組のトーク・ショー(女性キャスター、マイブリット・イルナーのショー)(2)ビルト紙の記事から

ギュンター・グラスをめぐってケンカ腰のトーク・ショー

セバスツィアン・デリガ

 

「老人と彼の詩」、このようにキャスターのマイブリット・イルナーは彼女の昨日の放送を開始した。番組の表題は「さらし者になったグラスーイスラエル批判はほんとうにタブーか?」というものだった。ギュンター・グラスのイスラエル批判、反ユダヤ主義の紋切り型表現、イランの役割をめぐるトーク・ショーである。とりわけ二人のゲストが本格的な言い争いになった。

 

マイブリット・イルナーは「ドイツの詩と真実をめぐる論争」を主催した。ノーベル文学賞受賞者のギュンター・グラスは彼の詩において「言わねばならないこと」においてイスラエルをさらし者にし、イランを核兵器で攻撃しようとし世界平和を脅かしているとイスラエルを非難した。

 

ミチェル・フリードマン氏:「そのような言葉の爆弾を使用できる人物は、批判もまた厳しいものであることを覚悟しなければならない。」グラスはタブーを破ったわけではない。イスラエル政府の政策を批判することができることは当然のことだ。

 

フリードマン氏は言う、「批判の可否ではなく、どのように批判すべきかが問題なのだ。」グラスは空想力でもって議論しており、「絶滅戦争」というような愚劣な概念や「世界ユダヤ主義、ユダヤ人の権力、ユダヤ人の破壊力」というような紋切り型の反ユダヤ主義的な言い回しをもてあそんでいる。

 

グラスは自分たちの世代の罪を相対化している、自分たちにとって自分たちが我慢がゆっくようにするために。彼(フリードマン氏)にとってみれば、グラスは「ほら吹き」である。そのように作家グラスは彼の詩の中でイラン大統領ムハマド・アハマディネジャドを無害化しつつ呼んでみせていた。

 

フリードマン氏の明確なグラスの詩に対する批判である。しかしフランツィスカ・アウグシュタイン氏は激しく反論する。

 

フリードマン氏の解釈を彼女は「魅力的」であると見なす。しかしグラスの詩の中にはそんな内容は全然見つからない。グラスはたんにイスラエルのイランに対する攻撃を警告しているだけで、そのことは正当であるとアウグシュタイン氏は言う。このジャーナリストは言う、「イランはイスラエルを地図の上から掃き出したいとは思っていません。」「イラン人は核爆弾を望んではいません。」それにもかかわらずイスラエルとアメリカの反イラン勢力はイランを破壊しようとしているという。とはいえ、くりかえしイスラエルを破壊すると脅かしたのがイランの大統領であることは彼女は言わない。

 

これに対してフリードマン氏、アウグシュタイン氏はグラス同様、原因と結果を取り違えている。攻撃者の役割を担っているのはイスラエルではない、その存在の権利を否認されている世界で唯一の国家としてイスラエルは自身を防衛しなければならない。それにもかかわらずイスラエルの政策が論議を呼んでいる。フリードマン氏は言う、「ニーベルンゲン族の忠誠は存在しないのです。」防衛大臣トーマス・デメジエル(CDU)などはイスラエルの防衛大臣エフド・バラクがベルリンを訪問した際率直に批判している。

 

しかしアウグシュタイン氏は自説をひるがえすことはなく、「イスラエルは安全です」と主張する。

 

フリードマン氏:「何ですって?」

 

イランは平和的であり、1980年から1988年にかけてのイラン・イラク戦争の際に戦争を仕掛けたのはイラクであるとアウグシュタイン氏はあくまで主張する。「8年もつづいた戦争を先導したのはイランではありません。その戦争がイランの誰ものこころに痕跡を残しているのです。」

 

両ゲストの間の前線は膠着状態に陥った。あくまで外交的だったのは元大使のアヴィ・プリモル氏である。イスラエルにも、イランと正当に交渉するのはどうすべきかの論争があるというのだ。

 

近東における支配的勢力となり、「世界の全石油埋蔵量の57パーセントを支配する」ためにイランが核兵器を製造しようとしているとプリモル氏は考えている。そうすれば、石油でもって他の諸国をおどすことのできる大国にイランはなることができると言うのだ。

 

プリモル氏:「イスラエル人はほんとうに不安がっているのです。」

 

彼にとってドイツ人の最悪の偏見は、イスラエルを攻撃的な国を見なしていることだという。これはグラスもまた詩の中で用いているような決まり文句に過ぎない。しかしグラスは彼にとって「反ユダヤ主義者ではない」とプリモル氏は明言する。グラスはプリモル氏やその後継者がイスラエルの大使として入国した際歓迎しようとしなかったにもかかわらず、である。

 

プリモル氏:「グラス氏にとってイスラエルはつき合うのがやっかいな相手なのです。」

 

 

ギュンター・グラスと彼の詩をめぐる感情的かつ困難な議論であった。キャスターの述べるところによれば、グラス自身はイルナーのインタビューに応じようともしなかったし番組に出演しようともしなかった。けれどもグラス不在でもイルナーのトーク・ショーのゲストは攻撃的であった。まったく相反する諸々も意見がさかんに行き交った。

ギュンター・グラスのイスラエル批判をめぐるテレビ番組のトーク・ショー(1)番組サイトから

「さらし者になったグラス」ーイスラエル批判はほんとうにタブーか?

 

 

ドイツにおけるユダヤ人中央評議会の元代表議長のミチェル・フリードマン氏は、作家ギュンター・グラスのことを、彼の詩「言わなければならないこと」で紋切り型の反ユダヤ主義的な言い回しをもてあそんでいると非難した。「このような言葉の爆弾を投げかけることの出来る人物は、批判もまた強烈なものになることを覚悟しなければなりません。」とフリードマン氏はZDFの番組「マイブリット・イルナー」で語った。

 

フリードマン氏によれば、グラスは「世界ユダヤ主義、ユダヤ人の権力、ユダヤ人の大量破壊兵器」といった紋切り型の言い回しをもてあそんでいる。このことでグラスは近東の状況をめぐる必要な論争に不満を表明している。グラスによると、この論争は一種のカモフラージュを必要としており、そこでは事実に反してイスラエルがすべての悪の根源としては提示されないことになっていると言うのだ。このようなグラスは「ほら吹き」であるとフリードマン氏は、グラスの詩の中でマハムド・アハマディネジャドに当てて用いられた言葉をほのめかして利用してみせた。この詩の中でグラスは、そのイラン政策と核兵器で世界平和を脅かしているとイスラエルを非難した。フリードマン氏にとってみれば、グラスが一時的に武装SSに加入していたことをおおやけにして以来、このような問題に対してグラスは道徳的に見て傷ものであるとフリードマン氏は断じた。

 

フランツィスカ・アウグシュタイン氏はフリードマン氏のそうした解釈に反対した。このジャーナリストは「あなたの言うような内容はこの詩の中に全然見つけられません」と主張した。彼女の見解によれば、グラスは核攻撃、戦争に対して警告を発しているのである。「彼はイスラエルのイランに対する攻撃に警告を発しているのであり、その意味で彼は正当です。」とアウグシュタイン氏は語り、さらに「このような攻撃は、たとえ通常兵器のみでおこなわれるにせよ、全世界にとって脅威です。」明日にでも通常兵器によって攻撃を差し向けるという脅しをイスラエルがおこなってからすでにかなりの日月が立っている。その際「イスラエルは安全」だ。なぜならイスラエルは「全員」によって守られているから。アメリカの軍事専門家さえ、イランはイスラエルを「片づけ」ようとはしないだろうと断言している。

アウグシュタイン氏によれば、ドイツはいかなる武器も緊張状態にある知識に輸出すべきではない。「あらゆる政治的問題を武装力によって解決できるという奇妙な考え」を欧米諸国は「何年も前から」持つようになっているが、それは間違っている。むしろ、わたしたちは戦争を望んではいないということを誰もがーイスラエルの側からもー発信することが必要なのだとジャーナリストは要求した。

 

イスラエルの元ドイツ大使アヴィ・プリモル氏の見解によれば、グラスは反ユダヤ主義者ではない。しかし、彼が外交官としてドイツに入国したときグラスが彼を歓迎しようとしなかったことを彼はよく覚えていると言う。「グラス氏にとってイスラエルとのつき合いは苦労が多いのです。」同時にアヴィ・プリモル氏は、イスラエルにもイランとの正しい交渉のあり方についての論争があるということを指摘した。その際重要なことは、「イスラエル人はほんとうに不安がっている」ということだ。「イスラエルを攻撃的な国と見なすこと」はドイツ人の最悪の偏見であると元大使は言った。反ユダヤ主義はこころして克服されなければならないと彼は要求した、しかし「それが存在しないとこでは、そういうわけではありません。」

 

フリードマン氏は放送の途中で、イスラエルの味方をすることはドイツの特別な責任のひとつをなしていることを アンゲラ・メルケル首相(CDU)が強調していることに注意を促した。とはいえアヴィ・プリモル氏は、ドイツの兵士がイスラエルのために戦うべきだということを話題にしたものは誰もないということを明確にした。

 

近東の専門家ペーター・ショルーラトゥール氏もまた直接の軍事的支援については警告した。「イスラエルに軍事的に加担すべきでないとドイツ人に忠告したいと思います。それはダメです。」とショルーラトゥール氏は語り、さらに、ドイツ軍の攻撃部隊が「イスラエルに向かって発砲しなければならない」という事態にも至らしめてはならないと付け加えた。

 

ショルーラトゥール氏によれば、グラスによって誘発された議論はまったくもって大げさに過ぎる」ものだ。それは「ヒステリー状態」に達していると近東専門家は批判し、「事態が先鋭化すればするほど、人々はそれだけいっそう核兵器の必要を感じるようになる。破壊のためでなくとも、脅しのために。」と警告した。最近彼はイランに滞在した。彼の意見によれば、イラン人は、核技術へのアプローチが許されないということで自分たちが「差別されている」とますます感じるようになっている。それにもかかわらず、現在、より大きな危険はイスラエルとその首相であるベンヤミン・ネタニヤフから生じているとショルーラトゥール氏は指摘する。

 

「イラン国民は核武装を望んではいません。それはまったく別次元の問題です。」とイラン系ドイツ人の映像作家兼作家のシバ・シャキブ氏は強調した。イランのほとんどの人々はギュンター・グラスが何を発言したかを知らないと言う。イランの指導部はグラスの詩を自分たちに都合よくゆがめて解釈している。イラン国民は、自分たちのまわりの国々が核兵器をもつならば、原則的に核兵器への権利を要求することはする、しかし実際問題としてそのことに関心をもっていないということをシカブ氏は明言した。イスラエル人の場合と同様、イラン人の不安もまったく具体的なものであると彼女は言う。そしてこの不安が攻撃を正当化するものならば、そのことは彼女の国イランにも当てはまるとこの作家は主張した。

 

 

グラスの入国禁止に対するイスラエル内部の反応 「ヒステリックな過剰反応」

フランクフルター・アルゲマイネ新聞

2012年4月9日

ハンスークリスツィアン・レスラー、イスラエル

 イスラエルでは過ぎ越しの祭りの週末にあたって、ドイツのノーベル賞作家ギュンター・グラスに対しても、彼の詩のかたちをとったイスラエル批判のかどで彼に課せられた入国禁止に対しても、このいずれに対しても批判がなされている。例えばイスラエルの元ドイツ大使アヴィ・プリモルは、内務大臣エリ・イシャイがこの作家に対して課した入国禁止を内政的に動機づけられた「ポピュリズム」と評している。プリモルはフランクフルター・アルゲマイネ紙に対して、イスラエルがイランを抹殺しようとしているというグラスの主張を自分は笑止千万と見なしていると語った。「しかし彼は反ユダヤ主義者でもイスラエルの敵でもありません。」

 イスラエルの作家ヨーラム・カニウクは「作家をボイコットする者はついには書物を焼くにいたるだろう。」と述べて警告している。イスラエルのノーベル化学賞受賞者アーロン・ツィチャノヴァもまた「ナンセンスにあらたなナンセンスでもって応じる」ことは誤りだと指摘する。新聞「ハーレツ」は内務省のこの入国禁止という告知をヒステリックな過剰反応と書いた。

 それ以前に内務大臣イシャイと外務大臣リーバーマンはギュンター・グラスに対する攻撃において互いに競り合いをしていた。彼らはこのドイツ人作家の問題のテクストを攻撃するばかりでなく、イスラエルに敵対的であるという彼の「詩」や「本」などの他の作品をも攻撃している。何冊かの作品がヘブライ語の翻訳で読めるにも関わらず、両人がグラスの作品を全然読んでいないことは明らかだ。

 内務大臣イシャイが今回利用したのは、かつてのナチにイスラエルへの入国を禁じた法律である。聞くところによれば、彼はその措置をとるにあたって他の部局と協調することはなかった。イシャイが日曜日に語ったところでは、グラスはイスラエルに対する憎しみを焚き付けており、彼がSSの制服を着ていたときに支持していた思想を広めようとしているという。グラスは2006年にフランクフルター・アルゲマイネ紙でのインタビューで、戦争の終わりごろ武装SSに所属していたことを認めていた。

 イスラエル内務省は過去にもくりかえし入国禁止措置をとっている。しかしこの措置がとられても通常の場合おおやけに告知されるということはない。以前にこの措置をとられたのは、例えばCDUの政治家ハインリヒ・ルンマーやオーストリアの極右政治家イェルグ・ハイダーといった人物である。

 しかしたいていの場合そうした禁止措置で問題になるのは、その境界をイスラエルが管理しているパレスティナの自治領域への訪問である。2010年イスラエル政府は政治的理由からドイツ開発大臣ディルク・ニーベルがガザ地区のエレツを訪問するに際してイスラエルを通過させなかった。そのような大臣訪問はハマスの正統性を強化する恐れがあるというのが当時のイスラエルの立場であった。翌年ニーベルは公式にイスラエルの承諾を得たうえで訪問を敢行した。彼以前にはドイツ外務大臣ヴェスタヴェレがすでに当地を訪れていた。

 2011年夏にはイスラエルはテルアビブ空港でドイツ出身の15人の親パレスティナ活動家を追放した。彼らは西ヨルダンの連帯週間に参加しようとしていたのだ。イスラエル当局は彼らおよび100人以上のヨーロッパ人を「公共の秩序にとって危険」と指定した。200人以上の活動家がすでにヨーロッパで、イスラエル行きの飛行機の搭乗することを拒まれている。こんどの週末にも同様の措置がとられることが予定されている。