マルティン・ヴァルザー「正しいヨーロッパ」(フランクフルター・アルゲマイネ紙電子版 2012年8月20日)

 毎晩、わたしたちは「ヨーロッパ債務危機」について意見を交わし合っています。そのためわたしの家では居合わせた専門家を、おまえはヨーロッパを(なおも)志向するのか、あるいはおまえはわれわれをユーロのない多元的な通貨体制に立ち戻らせようとするのかといった質問で問いただすことになります。

 ヨーロッパ連合は同時に一体の通貨体制でなければならないという意見にわたしは賛成です。ユーロが存在している。それはひとつの通貨である以上のものです。それはコミュニケーションの媒介者であり、ヨーロッパでは誰もが理解できるひとつの言語であります。現在、ひとつのヨーロッパの国が(ギリシアのこと)ユーロに別れを告げねばならない、外国為替の時代に逆戻りしなければならない、という意見が様々に論じられていますが、まったくとんでもない話です。そんな考えは捨てなければなりません。数年前、スイスの保守主義者クリストフ・ブロヒャー氏は、スイスに関してですが、通貨同盟というものは単一の国庫なくしては立ち行かないと述べました。このことを、このところわたしたちは自分自身の金融体制で身をもって痛感させられています。単一の国庫のないままに思い切って単一の通貨体制が敢行されたのは幸運なことだったのです。単一の国庫はこれからでも遅ればせに設けられなければなりません。これは実務的に解決可能な課題であって、ヴィジョンといったものによって解決されるものではなく、制定されるべき法制度によって一歩一歩解決されるものです。そしてそうなると、共通通貨のせいでヨーロッパ人は文化的な多様性を均等化してしまうのではないかと尊大に問題にする専門家が出てくる。

 共通通貨と相互に調整された簿記とは、そのつど通用している支配的な外国語(フランス語や英語のこと)でも無理だったように、文化的・精神的多様性を均等化することはありません。ヨーロッパは、地上の他の地域では例がないほど、国境を越えて学び合い理解し合うという高度な伝統を有しています。もし何かについて経済学者が気をもむ必要はないとすれば、それは文化的多様性についてであります。ヨーロッパの文化的多様性はたいそう古く、たいそう確固としたものでありますから、安心して経済的なコントロールに任せることができます。共通の経済的管理に向けて責任を持つこと、それが目標であります。金融市場の制御はいまでは誰もが期待していることです。そして対応能力のある中心機関としてヨーロッパ中央銀行が存在しています。それで十分です。

 わたしたちは、共通の価値観を育んできた数世紀を共有しています。ユーロは言わば生まれるべくして生まれたのです。それは「無理やり付け足された」ものでは決してない。ユーロをもつだけのものにわたしたちはなっていないと言ってユーロを非難する意見にはわたしは納得できません。その理由として主張されるのは純然たる経済主義であります。ドイツ国内ですら財政調整(国と地方自治体間の)について文句がつけられているのです、連帯というようなものは経済学者にとっては外来語なのだということが見てとれます。

 しかしまた、あちこちで(スペインやイタリア)生じている債務の負担をヨーロッパ全体で「一般化」できるようにわたしたちに「システム上の」修正をもとめる意見にもわたしは納得できません。そうした意見の理念的支持者のうちの誰も、パウル・キルヒホフ氏(ハイデルベルク大学教授、憲法および税法の専門家)ほどの信頼感をわたしに抱かせません。キルヒホフ氏は論を立てるのに、国民経済に介入することのできる新たな上級政府のヴィジョンなしで済ましています。彼は綱領的に借金を増やすことの無法性を指摘し、適法なあり方へ立ち戻ることを要求しているのです。実際、適法なあり方は存在しています。

 わたしたちに残されている選択肢は、続々と現れる専門家に同意するか、あるいは彼らの主張を拒否するかだけです。わたしの信頼を保証してくれる人は、まったく散文的なことこの上ない話ですが、れっきとした専門家たるショイブレ氏(現財務大臣)であるとせざるを得ない。

 しかし他ならぬヨーロッパが問題であるがゆえに、わたしたち文学の徒でもすでに相当の年期を積んでいるとわたしは考えています。これと比べれば政治家や専門家にとってヨーロッパは何だと言うのでしょう? そのような文脈でわたしが思い出すのは、当然ながら、シェイクスピアでありハムレットでありヘカベのことであります。それこそヨーロッパなのです!

 1799年の事例をひとつ。フリードリヒ・ヘルダーリンは友人ノイファーにあてた手紙で「文学に関する月刊誌」の計画を披露しています。その雑誌の論文は「古今の詩人の生涯の特徴的な性格、彼らが育った環境」などを含むことになるはずでした。「そうしてホメロス、サッフォー、アイスキュロスソフォクレス、ホラーティウス、ルソー(「新エロイーズ」の著者として)、シェイクスピアについて述べられるのだ。」「彼らの作品の特徴的な美しさ」も述べられるはずでした。「「イリアス」とくにアキレスの性格、アイスキュロスの「プロメテウス」、ソフォクレスの「アンティゴネ」「オイディプス王」、ホラーティウスの頌歌について、シェイクスピアの「アントニーとクレオパトラ」について、「ジュリアス・シーザー」のブルータスやカッシウスの性格について、「マクベス」についてなどなど。」

 やはり1799年の別の手紙にも次のようにあります。「しかしドイツ人のうちもっともすぐれた人たちでさえ、まだまだたいていの場合、世界が美しいシンメトリーさえ描いていたら、どんなことがそこで起こってもかまわないなどと考えています。おお、ギリシアよ! おまえの天才、おまえの敬虔さ。おまえはどこに行こうとするのだ?」わたしがこれを引用するのは、ギリシアがいまユーロ問題の焦点であるからではありません。そうではなくこれが、当時24歳、ニュルティンゲンの詩人が他のヨーロッパの国々とどんなに一緒に生きていたか、この外国(ギリシア)がどれほど彼にとっての自国であったか、この国がどれほど彼の意識に、彼のアイデンティティに帰属するものであったかを示しているからであります。これはこういうことです。文学はつねにすでにヨーロッパ的であった、ヨーロッパはわたしたちの文学的故郷なのです。

 ドイツ語はヘルダーリンの頌歌におけるほどの職人的な完璧さに達したことはありません。そしてその詩節の韻律は、彼がアルカイオスとアスクレピアデスから学んだものです。まったくあたりまえというようにこのドイツ語の詩は純粋にギリシア的な韻律で響きわたっています。

 

 わたしの心は神聖ではあるまいか、より美しい生に満たされて

 わたしが愛を知ってからというもの?なぜ諸君はわたしにより以上の関心を注ぐのか、

 わたしがより誇らかに、より猛々しく

 より言葉豊かに、より空疎になったせいか?

 

 古い至福の岸辺で

 わたしを捕らえ、わたしがわたしの祖国よりも

 あなたをより以上に愛するようになった、

 あれは何だ?

 

 ………

 アポロが歩く

 王の姿でと石たちが言う、

 そこにわたしはいる

 

「ムネモシュネー」は荒々しい後期の詩です。ムネモシュネーというのは記憶の女神です。ウラノスとガイアの娘、すべてのミューズの母、もちろんゼウスの愛人でもありました。

 

 イチジクの木のところでわたしの

 アキレスは死んだ、そして

 そしてアイアスは横たわっている

 海の洞穴のところ

 ……しかしキテロンの山に横たわるのは

 エレウテレ、ムネモシュネーの町……

 

15歳のときこれを読んだなら、この調べによって、この形象の完璧な確固さによってどうして魅了され魅惑されずにいられましょうか。

 

 火に浸され、煮られ、熟するのは

 果実……

 

そしてわたしにとってあらゆる詩のなかでもっとも大きな印象を残している詩「平和の祭り」では、「わたしたちが会話を交わし互いに話を聞き合ってからこのかた」という詩行が鳴り響いています。「おまえ、決してひとを信用することのない宥める者よ/いまおまえはそこにいる……」というように「祖国の歌」のうちのひとつの詩ははじまり、抵抗しがたい力でわたしを連れ去ったのです。もちろんそうした感動的な作品に出会うことは無数にある。人は作品につかまれる。そのようにして人は、最晩年のニーチェに対して、最後にあたり自分のことを「哲学者ディオニュソスの弟子」と呼んでいるニーチェに対して心の準備をすることになるのです。そして彼の「ディオニュソス・ディテュランブス(酒神讃歌)」において、高らかな調べにみちた彼の著作家としての存在は最高の調子に達するのです。

 彼の最後の手紙にニーチェは「十字架に架けられた者」とも「ディオニュソス」とも署名しています。専門的な注釈家たちはこれを「発狂」のせいにしている。彼らは同時にこの「発狂」を、ニーチェがトゥーリンの公道で馬にキスをしたというエピソードで説明してみせています、すでにホメロスがアキレスの馬を泣かせてみせているということを知らないままに! わたしもこのことを最近ヘーゲルを読んで知ったのでした。そしてニーチェは彼の初期の荒々しい本、わたしたちの内面生活をアポロン的なものとディオニュソス的なものとの決して終わることのない闘争として描いた「音楽の精神からの悲劇の誕生」を論じた、ギリシアについての本を次のように締めくくっています。「……かくも美しくなり得るために、何という多くの苦難をこの民族は耐えねばならないことか。」

このギリシアに対する祝福は、詩人たちがすでにつねにいかにヨーロッパ的であったかを確かめるために謳われたのだということをわたしは忘れません。そしてニーチェは、かつてドイツ語で表現した者のうちでもっともヨーロッパ的な存在でした。まさしく「ディオニュソス・ディトュランブス」において。そこで彼は跳躍しています。

 

 もう一度うなる

 倫理的にうなる

 ……

 ヨーロッパ人の熱狂、ヨーロッパ人の渇望!

 そしてそこにわたしはすでに立っている、

 ヨーロッパ人として、

 わたしは別様ではあり得ない、神よ、わたしに助けの手を!

 アーメン!

 

 すでに「人間的な、あまりに人間的な」において彼は「ヨーロッパ人という文化概念」を鋭く研ぎすまし、それに「ギリシア、ローマ、ユダヤ、キリスト教のうちに共通の過去をもつすべての諸民族と民族の一部のみ」を数え入れています。道徳、流行、哲学、政治、宗教、芸術、何であれ自分を動かす一切のものを彼はつねにヨーロッパ人としても結び付けています。そこには悪もふんだんにありますが、しかし光に満ちたものもまたふんだんにあるのです。まったくちがった例としてここでは「善悪の彼岸」の第七章冒頭を挙げておこうと思います。「われわれ明後日のヨーロッパ人、われわれ20世紀の初子ーわれわれの危険な好奇心、われわれの多様性と仮面の術、精神と感覚における脆くなった言わば甘味のついた残酷さを有するわれわれーこのわれわれが徳をもつべきであるとすれば、われわれは、われわれのもっとも熱い欲求ともっともよく折り合いがつく徳だけをおそらくはもつであろう。……自分自身の徳を求めることよりも美しいことがあるだろうか? これはもうほとんどすでに、自分自身の徳を信じることと同じではないか?……これはしかし根本的には、以前彼の「疾しくない良心」と呼ばれたものと同じものではないか? ……一点においてわれわれはやはりこの祖父たちの然るべき孫なのだ。われわれ疾しくない良心をもつ最後のヨーロッパ人……ああ! このことが間もなく、すぐにも変わってしまうことを諸君が知っていてくれれば。」

 これが出版されたのは1885年でした。オーバーエンガディンのシルスマリアで書かれた序文の結末にはこうあります。「しかし、ジェスイットでも民主主義者でもないわれわれ、十分にドイツ人ですらないわれわれ、われわれ良きヨーロッパ人にして自由な、とても自由な精神ーこのわれわれはそれを、精神の全危急とその弓の全緊張をもっている。そしておそらくは弓矢をも、あの課題を、誰知ろう、あの標的をももっているのだ。」要するにです、まわりであらゆる学部がなおナショナリズムのために奉仕しておしゃべりしていたときに、どんなにヨーロッパ的にものを考え書くことができるかを示した人物がいたとすれば、それがニーチェだったのです。

 ニーチェは、ヘルダーリンとならんで、もっともギリシア的なドイツ語の著作家であることは確かなことです。ヘルダーリンは彼の唯一の散文作品「ヒュペーリオン」のことを副題で「ギリシアの隠者」と呼び、ギリシア人に姿を変えて、ドイツ人におのれの苦悩の物語をギリシアの衣装を身に着けて語ったのでした。ギリシア同様、フランスもイギリスもイタリアもスペインもその他その他もドイツの詩人たちにとって重要であった点で変わりありませんでした。

 1771年10月14日、ゲーテはフランクフルトでシェイクスピアの日を記念して公演をおこないました。それをもって「シュトゥルム・ウント・ドランク(疾風怒濤)」と呼ばれる運動が始まります。「わたしがシェイクスピアを読んだ最初のページがわたしを生涯にわたって虜にしてしまいました。最初の一冊を読み終えると、魔法の手によって一瞬のうちに視覚を取り戻した盲目の人のようにわたしは立ち尽くしました。」これ以来シェイクスピアはドイツの舞台を支配しており、わたしたちすべてを繰り返しこのイギリスの天才の同時代人にしてくれています。

 どんな方向性ものであれ、ドイツ文学は、それがヨーロッパ的であるとき、もっとも生き生きとしています。ドイツ文学はいつでも、外国に赴いたあとではじめてドイツ的たりうるのです。「ボヴァリー夫人」は感受性の危機に対する激励なのであって、誰もがこれを読むことで何をもって人は感動することができるかを体験することになります。どんなに激しく悩むことが許されるか、これをわたしたちに示したのはストリンドベリでありました。魔法を呼び出す幼年時代をわたしたちはプルーストによって経験するのです。などなどであります。

 現在わたしたちすべての議論の的になっている正しいヨーロッパをめぐる論争において、わたしを納得させるのはいつでも、是々非々で対応するがつねにヨーロッパを志向して決して後戻りしない専門家であります。用心深い人には説得力がありますが、迷わない人は説得力がありません。少なくとも、政治的な力の計算が行動の意図を規定しているような場合、わたしには賛成する用意があります。ことの進行を妨害する者がしたい放題しようとするような場合、わたしはそれを事故だと見なします。あまりにも多くを要求する者が、そのことで、そもそも捗らない行動を、場合によっては迷いのない傾向によって、頓挫させるとしたら、それは残念なことです。

 若年層の失業率はわが国では8パーセント。南欧諸国では50パーセントにまでなります。わたしたちは数千年の歴史で何を吟味し何を学んできたのでしょう!そしてまさに他者に欠けるものがあるいま、わたしたちは援助の手を差し伸べることができます。そのために上級政府を設置する必要はありません。

 ドイツ連邦共和国は、戦後のマーシャルプランによって力をつけるために、いかなる「システム上の」変更も遂行する必要はありませんでした。可能な解決のための「住民投票」というものをわたしは想定しようとは思いません。わたしたちはバイエルン化を恐れる必要はないが、不安を焚き付けることは最悪です。(われわれの政府の)現今の路線(ギリシア援助)に反対する専門家のほとんどは、自論が貫徹できないとなると、大破局を予言します。このこともまたわたしをしてパウル・キルヒホフ氏に好感を持たせる。「こうしたすべては事故でもなければ、危機でもない。移行の表現である。」とキルヒホフ氏は述べているのです。(そのキルヒホフ氏が「ハイデルベルク出身の大学教授」として頭ごなしに叱責されたのはどうしたわけのことでしょう!)

 以上、わたしたちのヨーロッパを志向する文学の長所にいくつか光を当ててみました。ドイツ語は、歩くこと、走ること、踊ること、スキップすることをギリシアで、プロヴァンスで、イギリスその他で学んだのです。

 ルターが聖書をドイツ語に翻訳していなかったとしたら、わたしたちの言葉がどうなっていたかは想像できません。プロテスタントの牧師の家の息子たちのことを考えてみるだけでいい! ニーチェカール・バルト、ゴットフリード・ベン。そしてヘルダーリンはかくも歴史的影響力の強い言葉を語ることはできなかったでしょう。「……というのもあまりにもはなただしく/おお、キリストよ、わたしはあなたを愛している。どんなにヘラクレスの兄弟が」経済を語ったとしても。わたしたちは外国からの輸入によって無限の利益を得ているのです。

 「母なる自然よ、おまえの発明なる華美の見事なことよ、/野原に振りまかれて。」1751年、このようにクロップシュトッックはチューリヒ湖に捧げた頌歌をはじめています。アスクレピアデス調の調子です。アナクレオン、アルカイオス、アスクレピアデス、サッフォーに学ぶ以前にはドイツ語はこれほど柔軟ではありませんでした。こうした作品を時宜を得て読んだとすれば、その印象は彼を去ることはなく、あらゆる想起を契機として全体を呼び戻すことでしょう。すなわちそれがヨーロッパなのです。

 いま問題されている諸国民が(ギリシアやスペイン)わたしたちの援助によって、かつてドイツを危機から救い出したような自分自身の発展に成功しないはずがあるでしょうか? 2008年にアメリカ合衆国から押し寄せてきた危機(リーマンショック)はあらゆる関与者の賢明なふるまいによって模範的に克服されたのではないのでしょうか?

 専門的知識の化粧をした小心さが発言権を得ることを許してはなりません。逆戻りは正しいヨーロッパを、想像不可能なほど昔の歴史のゴミの山に放り投げてしまうことになるでしょう。そうなれば正しいヨーロッパはもはや考えることもできません。しかしこれをこそ考えねばならないのです! ヨーロッパは見本市に値する。このこともまたわたしたちは学びました。フランスで。わたしたちはわたしたちであることを学んだのです。ヨーロッパはまた学びの共同体でもあるのです。

 すなわちヘルダーリンは語りました。「そして世界の罪、知識の理解しがたさ/仕事の忙しさが常なるものを超えて生い茂ってしまう……」しかし彼はまた次のようにも述べています。「危険のあるところ/救いもまた生い育つ」。

 以上、これだけのことは言ったとしても許されるでしょう。正しいヨーロッパはエリートクラブでもないし上級政府によって統治される国家連合でもない。正しいヨーロッパは学びの共同体であり、自由意志と自己規定に基づいているのです。

 そしてこれ(自由意志と自己規定)こそがヨーロッパが世界に向けて提供できるものなのであります。