フランク・シルマッハーのギュンター・グラス批判 ーグラスのイスラエル批判に関してー

フランクフルター・アルゲマイネ新聞 文芸欄

 

ひとつの解説

「グラスがわれわれに言いたいこと」

2012年4月4日 ギュンター・グラスの詩「言われねばならないこと」は復讐のドキュメントである。ひとつの解釈。

フランク・シルマッハー

 

ギュンター・グラスの詩は、最初は目でもって、次にはドライバーを手にして読むことをお勧めしたい。それはイケアの書棚に似ている。図面で見るとすべてはまったく簡単に見える。しかし出来上がった作品をひとたび分解してみると、簡単にはもはや組み立てることはできなくなる。

詩というものは当然ながら書棚ではない。そこに潜んでいるものは外からは見えない。詩が詩であるのは、それが何が問題であるかを決して言わないからだ。だからこそ幾世代にもわたってドイツ語の授業で生徒たちは、詩人がわれわれに何を隠しているかという問いに答えなければならないのである。

 

詩としての論説記事

論説記事とはまったく違う。論説記事は一種の記事であって、それは何が問題であるかをつねに言う。だからこそ幾世代にもわたる新聞読者は毎朝、記事が言うことを正しいと思うか誤っていると思うかを互いに争うのである。

ある作家が詩にして論説記事でもあるものを組み立てたのだとしたら、読者はその詩人が隠していることを正しいと思うか誤っていると思うかを探らねばならないのは理の当然である。

ギュンター・グラスと彼の詩「言われねばならないこと」の場合がまさにそうだ。このノーベル賞受賞者が今日9連の詩節を世界に知らしめた(しかし「ニューヨークタイムズ」はこれを掲載しなかったが)。一見したところでは、この詩は理解しやすく無害に組み立てられたもののように見える。「言われねばならないこと」は第7節にある。すなわち「核兵器保有国イスラエル」が世界平和を脅かしているというのだ。イランとイスラエル、「図上演習」「核の潜在力」「反ユダヤ主義」「潜水艦」の調達、「西洋の偽善」「世界平和」「イランの核施設」「恒久的制御」「国際裁判所」が話題となっているが、これはすべて政治的な論説記事の部品である。

 

詩の裏に潜んだ詩

この詩については論説記事と同じように議論することが出来る。そうすれば、イスラエルという国家が世界平和を脅かしているというテーゼを別にすれば、グラスはいかなる個別的見解も述べていないことが確かめられるだろう。デイヴィット・グロスマンはこの新聞紙上でまったく同じような内容の発言をしている。イスラエルの新聞「ハーレツ」はつい数日前に、イスラエルの予防攻撃を戒めるヒラリー・クリントンの発言をくわしく引用したばかりである。一見したところでは、グラスの詩もそうした事例のひとつに過ぎないもののように思われる。言わばノーベル賞受賞者の公式発表である。ただ言語的には今日通用している種類の文学とは何光年も隔たっているが。

いまドライバーを手にして探りを入れてみると、第二番目の詩が見つかる。すなわち西ドイツが戦後とってきた行き方からのたいそう慌ただしい離反である。グラスはひとつの論説記事を書いた。その記事が叙情詩の手法を利用しているのは、イスラエルについてイスラエルの犠牲者として話すことが出来るようにするためだ。ドイツの歴史は彼が率直に話そうとするのをこれまで妨げてきた。しかしいまや彼は語らねばならない。

 

なぜわたしは黙っているのか、あまりにも

長く黙っているのか、

公然たる事実であり、図上演習が

おこなわれ、その隅っこでは

生き延びた者として

わたしたちはいずれにしても脚注に過ぎない。

 

この言葉の巨匠が暗示的に何を呼びかけているかを明らかにせねばならない。語っているのは潜在的な「生き延びた者」であり、それはイスラエルを阻止することがなければ、

「いずれにしても脚注に過ぎ」なくなってしまうというのだ。意味上のコンテクストでは彼は「生き延びた者」という言葉を略取し、そのことで第三帝国の生き延びた被迫害者の道徳的権威を奪っている。さらに彼はほとんど文字通り2008年9月9日のポグロムの夜を記念した催しをほのめかしている。その催しでシャルロッテ・クノーブロッホは。ホロコーストの犠牲者が「歴史の脚注」となることがあってはならないと警告していたのである。このような危惧に応じてアンゲラ・メルケルはこの同じ催しで「イスラエルの安全を守ることはドイツの国家理性の一部である」という国法上も重要である有名な命題でもって答えた。この命題にグラスの詩は反対しようというのである。

 

叙情詩によるレッテル詐欺

しかしそれだけにはとどまらない。詩全体をもうひとつの二次的な文脈がつらぬいている。叙情詩によるレッテル詐欺であって、いくつかの概念を交換すれば、1934年に未来への明察をもって抵抗をつらぬいた闘士のテクスト(周知のように一つ例外がある以外には書かれたことはない)の詐欺的形態のように機能するのだ。グラスは言う、

 

1.わたしはかくも長く沈黙してきた、しかし今やわたしは沈黙しない。

2.わたしが沈黙してきたのは、「強制」によってであって、罰への恐れからである(「罰を垣間見せる強制」)。

3.わたしは「反ユダヤ主義」と告発されることになるだろう(意味論的に、反逆罪という言葉を置き換えている)。

4.しかし今やわたしは語る、なぜなら一つの偉大な民族を消滅させることが計画されているからだ。

 

ここで問題となっているのはもはやイスラエルとイランではない。ここで問題となっているのは、結局のところ、役割交換をくわだてるチャンスをつかまえることなのだ。当然ながら彼はドイツの犯罪を「固有のもの」であり「比類ないもの」と言っている。しかし彼は、陳述のレベルでは否定していることを連想のレベルでは暗示しているのだ。グラスが呼びかけている言葉の圏域は、生き延びた者から一つの民族の消滅にいたるまで、ホロコーストであることは明瞭である。けれどもグラスは、自分の舌を解き放つためにそれ以上のことを提示しなければならない。それはひょっとすると彼の最も力強い作品である。彼は、計画された民族殺戮の未来の生き延びた者として語るばかりではなく、彼が「真理」を発言することを妨げているもののことをも語ろうとするのだ。

 

なぜなら、決して消せない汚辱が

まとわりついた私の出自が、

この事実を、明々白々たる事実として

私が恩義を負っており負いつづけるであろう

イスラエルという国に期待することを

禁じていると私は思ったからだ。

 

彼に偽装を強いているものは行動や思想ではなくて、遺伝的な出自だというのだ。「汚辱としての出自」と言っておいて、彼は「私の世代」「私の国」「私たちの歴史」「私の歴史」とは言わない。彼が利用するのは系図的な概念である「出自」である。理由は単純である。今では彼もまたこの烙印を、人種差別主義の真の犠牲者と共有しているからだ。なるほど自分は駆り立てられ迫害されたとは彼は言わない。しかし彼が支払ったと思い込んでいる代償は文学の世界では死刑判決のようなものだ。すなわち出自が彼に嘘を強いているのだ。

 

ルサンチマンのこしらえ物

この詩をここまで分解してしまうと、もはやふたたび組み立てることはできなくなる。いいや、これはイスラエルやイランや平和についての詩ではない。イランのホロコースト否定者がある詩行で「ほら吹き」の一語で片付けられ、同時に、イスラエルを世界平和の脅威と断ずるためにのみ表立っては書かれたということになれば、どうしてこの詩がイスラエルやイランについての詩ということになりえよう。

この詩はルサンチマンのこしらえ物である。ニーチェルサンチマンについて語ったように、道徳的に生涯にわたって傷つけられたと感じている世代の「想像上の復讐」のドキュメントである。ドイツ人としてはたしてイスラエルを批判することが許されるかという論争が巻き起こることを彼は期待しているのだ。しかし、この85歳の男が自分の心の平和を自身の伝記でもって作り出すだけのことのために、全世界をイスラエルの犠牲者と断定することが正当化されうるかどうか、このことをめぐって論争が巻き起こるべきだろう。